2010年09月10日
音楽の街・浜松の“音楽文化産業都市”への大いなる可能性
浜松百撰2010年8月号掲載
※残念ながら本誌では、前半2章が掲載されませんでした。全文にてご一読ください。
●浜松の産業基盤は、浜松城築城の大工職人にあり。
明治20年(1887年)、浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)のアメリカ製のオルガンを山葉寅楠(ヤマハ創業者)が修理したことから、浜松の楽器産業がスタートした。浜松は天竜川上流の北遠、南信州地域の豊富な木材を利用し、江戸時代より木工加工に長けた大工職人のまちであった。徳川家康が1570年に築城した浜松城には、当時の優れた木工技術が注ぎ込まれ、多くの大工職人が携わった。浜松市中区に“大工町”の町名が残るのはそのためだ。また、浜松まつりの御殿屋台づくりやヤマハ創業時の楽器づくりには、天竜川河口の掛塚地域の大工職人が活躍している。
明治維新後の文明開化、近代産業化の中で、輸入品に負けない国産品の製造が競って行われるようになった。浜松はその大工職人の木工加工技術を活かし、楽器、織機産業を築いていった。さらには、鉄道院浜松工場での金属加工技術も加わり、ピアノや織機の鉄製フレームとして鋳造技術が発達した。戦時中、楽器の合板技術は軍需品の木製プロペラを経て金属プロペラに転換された。そして、それらの技術は戦後の自動車やオートバイ等の輸送機器産業の源泉となっていくのである。
●未来にむけた変革への決意ができない浜松。
戦後の高度成長期、浜松は工業都市として大きな発展を遂げた。2007年4月には全国16番目の政令指定都市となり、多くの財源と権限を県から引継ぎ、自主独立性の高い大都市の仲間入りをしたわけだ。しかし、21世紀になって工業生産拠点が海外・市外に流出し始め、中心市街地が益々衰退し、都市間競争が激化する中で、“未来が見えない大都市”それが現在の浜松市の姿なのだ。これでは人もモノも金も情報も集まらない、元気の無い都市になってしまう。早急に浜松市の魅力ある未来づくりが必要とされているのだ。
それでは、“浜松の夢ある未来の姿”とは何なのか?!特に次世代産業や浜松市中心部の活性化には多くの時間とお金と労力が費やされてきたが、その具体的な結論も出ないまま、さらに厳しい状況に追い込まれている。かつての華々しい成功体験から、「何とかなるらぁ」とたかをくくり。優位性を保ってきた都市環境の豊かさ(財政、産業、交通、地理、自然…)?から、「変わらなくったっていいらぁ」と思っている。現状を直視し、危機感を抱き、未来に向けた大いなる変革への決意が、ここ浜松は出来ていないのだ。
●市民の熱意と結束が“やらフェス”の原動力。
浜松市は、「楽器の街から音楽の街へ」を合言葉に、大規模な音楽施設の整備や音楽事業を展開してきた。その象徴が「アクトシティ浜松」であり「浜松国際ピアノコンクール」だったりする。市民の音楽活動を振興する目的で、多くの音楽事業や音楽団体に多くの助成金を使ってきた。しかしながら、昨今の事業仕分けや行革審しかりで、文化活動への助成金には多くのメスが入れられた。国の借金は約900兆円、国民一人当たりでは約700万円。子や孫に無断で借金をし続ける大人達の勝手し放題は許されなくなってきている。誰もが納得するお金の使い方や活動の自立性が求められているのだ。
そうしたことから、私が実行委員長を務める市民音楽祭「やらまいかミュージックフェスティバル」は、浜松市からの助成金を一切もらわず、実行委員会費、出演者運営協力費、企業・個人の協賛、募金活動、グッズや公式ガイドブックの販売、飲食物販等の様々な手立てをして運営費を確保し、経費を絞り黒字決算を続けている。それは実行委員会の知恵や工夫と献身的な努力と、何よりも市民ボランティアである出演者を含む運営スタッフの「音楽の街・浜松で大いに音楽を楽しみたい!」「自分たちでやらフェスを成功させるんだ!」という熱意と結束の証であり、やらフェスの原動力そのものである。
●地域経済や商売に寄与する共働共栄の取り組み。
Tシャツ、ネックピースストラップ、缶パン、カステラ饅頭、公式ガイドブック、自動販売機…。やらフェスロゴマークのついた商品が数々誕生してきた。Tシャツは今回から商店街での店頭販売を意識して、音楽をテーマとしたファッションセンスあふれるデザインを地元デザイナーに募集して採用した。公式ガイドブックは既に、書店、コンビニで店頭販売を実施している。新しい試みとなるやらフェス自販機は、飲料を購入するとやらフェスに売り上げの一部が寄付される仕組みとなっている。他の音楽団体と共同で、街中で音楽演奏のできるステージを提供する「OKステージ」のシステムも構築した。
今年の第4回やらフェスは10月9日(土)・10日(日)の2日間開催に拡大し、219組・約1,000名の出演者が2日間で延べ22ステージでの演奏を予定している(7月現在)。関東、関西、中京地域からの出演者が約15%を占めることから、宿泊や飲食店の利用も増えるのではと期待している。まだまだ経済波及効果と言えるほどのものではないが、やらフェスの運営費確保とともに、地域経済や商売にも寄与する共働共栄の取り組みを常に考えながらやっている。
●提案「音楽文化産業都市・浜松」への変貌!
このやらフェスの試みは産業創造へと結びつく。音楽をテーマにしたお菓子等のお土産品やグッズの販売、気軽に生演奏が楽しめるオープンステージの常設、中古楽器・音楽ソフト販売店街、録音・練習スタジオの充実、デスクトップミュージックのソフト開発、東京で開催されている楽器フェアの誘致、地元楽器メーカー・商品の歴史紹介や新商品タッチ&トライ・商談・異業種交流・セミナー・講演会・コンサート等が頻繁に行われ、一般の人も入館できる音楽のテーマ館も是非あってほしい。演奏家はもちろん音楽プロデューサーやディレクター、音響マン、マネージャー等の人材育成をする大学や専門学校、プロの演奏家の定住施設や音楽研究施設も整備したい。音楽レーベル、プロダクション、レコーディングスタジオ、出版社、メディアもあって当然だ。プロ×アマ、大人×子ども、消費者×メーカー、浜松×世界が音楽で豊かに交流するプログラムやイベントも是非必要だ。
楽器産業から音楽文化産業へ。楽器産業を基盤に持つ浜松だからこそ、大いなる可能性を秘めている。世界のあらゆる音器・音楽シーンで注目される街、世界中の誰もが憧れ訪れる音楽の街、世界の人々を幸せにする音楽を生み出す街、そして浜松市民が音楽に夢と希望、誇りを持つ街、それが“浜松の夢ある未来の姿”だ。
T-PRODUCE 代表
地域プロデューサー 鈴木 建也
※残念ながら本誌では、前半2章が掲載されませんでした。全文にてご一読ください。
●浜松の産業基盤は、浜松城築城の大工職人にあり。
明治20年(1887年)、浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)のアメリカ製のオルガンを山葉寅楠(ヤマハ創業者)が修理したことから、浜松の楽器産業がスタートした。浜松は天竜川上流の北遠、南信州地域の豊富な木材を利用し、江戸時代より木工加工に長けた大工職人のまちであった。徳川家康が1570年に築城した浜松城には、当時の優れた木工技術が注ぎ込まれ、多くの大工職人が携わった。浜松市中区に“大工町”の町名が残るのはそのためだ。また、浜松まつりの御殿屋台づくりやヤマハ創業時の楽器づくりには、天竜川河口の掛塚地域の大工職人が活躍している。
明治維新後の文明開化、近代産業化の中で、輸入品に負けない国産品の製造が競って行われるようになった。浜松はその大工職人の木工加工技術を活かし、楽器、織機産業を築いていった。さらには、鉄道院浜松工場での金属加工技術も加わり、ピアノや織機の鉄製フレームとして鋳造技術が発達した。戦時中、楽器の合板技術は軍需品の木製プロペラを経て金属プロペラに転換された。そして、それらの技術は戦後の自動車やオートバイ等の輸送機器産業の源泉となっていくのである。
●未来にむけた変革への決意ができない浜松。
戦後の高度成長期、浜松は工業都市として大きな発展を遂げた。2007年4月には全国16番目の政令指定都市となり、多くの財源と権限を県から引継ぎ、自主独立性の高い大都市の仲間入りをしたわけだ。しかし、21世紀になって工業生産拠点が海外・市外に流出し始め、中心市街地が益々衰退し、都市間競争が激化する中で、“未来が見えない大都市”それが現在の浜松市の姿なのだ。これでは人もモノも金も情報も集まらない、元気の無い都市になってしまう。早急に浜松市の魅力ある未来づくりが必要とされているのだ。
それでは、“浜松の夢ある未来の姿”とは何なのか?!特に次世代産業や浜松市中心部の活性化には多くの時間とお金と労力が費やされてきたが、その具体的な結論も出ないまま、さらに厳しい状況に追い込まれている。かつての華々しい成功体験から、「何とかなるらぁ」とたかをくくり。優位性を保ってきた都市環境の豊かさ(財政、産業、交通、地理、自然…)?から、「変わらなくったっていいらぁ」と思っている。現状を直視し、危機感を抱き、未来に向けた大いなる変革への決意が、ここ浜松は出来ていないのだ。
●市民の熱意と結束が“やらフェス”の原動力。
浜松市は、「楽器の街から音楽の街へ」を合言葉に、大規模な音楽施設の整備や音楽事業を展開してきた。その象徴が「アクトシティ浜松」であり「浜松国際ピアノコンクール」だったりする。市民の音楽活動を振興する目的で、多くの音楽事業や音楽団体に多くの助成金を使ってきた。しかしながら、昨今の事業仕分けや行革審しかりで、文化活動への助成金には多くのメスが入れられた。国の借金は約900兆円、国民一人当たりでは約700万円。子や孫に無断で借金をし続ける大人達の勝手し放題は許されなくなってきている。誰もが納得するお金の使い方や活動の自立性が求められているのだ。
そうしたことから、私が実行委員長を務める市民音楽祭「やらまいかミュージックフェスティバル」は、浜松市からの助成金を一切もらわず、実行委員会費、出演者運営協力費、企業・個人の協賛、募金活動、グッズや公式ガイドブックの販売、飲食物販等の様々な手立てをして運営費を確保し、経費を絞り黒字決算を続けている。それは実行委員会の知恵や工夫と献身的な努力と、何よりも市民ボランティアである出演者を含む運営スタッフの「音楽の街・浜松で大いに音楽を楽しみたい!」「自分たちでやらフェスを成功させるんだ!」という熱意と結束の証であり、やらフェスの原動力そのものである。
●地域経済や商売に寄与する共働共栄の取り組み。
Tシャツ、ネックピースストラップ、缶パン、カステラ饅頭、公式ガイドブック、自動販売機…。やらフェスロゴマークのついた商品が数々誕生してきた。Tシャツは今回から商店街での店頭販売を意識して、音楽をテーマとしたファッションセンスあふれるデザインを地元デザイナーに募集して採用した。公式ガイドブックは既に、書店、コンビニで店頭販売を実施している。新しい試みとなるやらフェス自販機は、飲料を購入するとやらフェスに売り上げの一部が寄付される仕組みとなっている。他の音楽団体と共同で、街中で音楽演奏のできるステージを提供する「OKステージ」のシステムも構築した。
今年の第4回やらフェスは10月9日(土)・10日(日)の2日間開催に拡大し、219組・約1,000名の出演者が2日間で延べ22ステージでの演奏を予定している(7月現在)。関東、関西、中京地域からの出演者が約15%を占めることから、宿泊や飲食店の利用も増えるのではと期待している。まだまだ経済波及効果と言えるほどのものではないが、やらフェスの運営費確保とともに、地域経済や商売にも寄与する共働共栄の取り組みを常に考えながらやっている。
●提案「音楽文化産業都市・浜松」への変貌!
このやらフェスの試みは産業創造へと結びつく。音楽をテーマにしたお菓子等のお土産品やグッズの販売、気軽に生演奏が楽しめるオープンステージの常設、中古楽器・音楽ソフト販売店街、録音・練習スタジオの充実、デスクトップミュージックのソフト開発、東京で開催されている楽器フェアの誘致、地元楽器メーカー・商品の歴史紹介や新商品タッチ&トライ・商談・異業種交流・セミナー・講演会・コンサート等が頻繁に行われ、一般の人も入館できる音楽のテーマ館も是非あってほしい。演奏家はもちろん音楽プロデューサーやディレクター、音響マン、マネージャー等の人材育成をする大学や専門学校、プロの演奏家の定住施設や音楽研究施設も整備したい。音楽レーベル、プロダクション、レコーディングスタジオ、出版社、メディアもあって当然だ。プロ×アマ、大人×子ども、消費者×メーカー、浜松×世界が音楽で豊かに交流するプログラムやイベントも是非必要だ。
楽器産業から音楽文化産業へ。楽器産業を基盤に持つ浜松だからこそ、大いなる可能性を秘めている。世界のあらゆる音器・音楽シーンで注目される街、世界中の誰もが憧れ訪れる音楽の街、世界の人々を幸せにする音楽を生み出す街、そして浜松市民が音楽に夢と希望、誇りを持つ街、それが“浜松の夢ある未来の姿”だ。
T-PRODUCE 代表
地域プロデューサー 鈴木 建也
Posted by 鈴木建也(すずきたつや) at 22:32│Comments(0)
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